小泉八雲の驚嘆
いったい、日本の国では、どうしてこんなに樹木が美しいのだろう。
西洋では、梅が咲いても、桜がほころびても、格別、なんら目を驚かすこともないのに、それが日本の国だと、まるで美の奇蹟になる。
その美しさは、いかほど前にそのことを書物で読んだ人でも、じっさいに目のあたりにそれを見たら、あっと口がきけなくなるくらい、あやしく美しいのである。
出典:「明治文学全集48小泉八雲集」筑摩書房
小泉八雲とは?
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)
小泉 八雲(こいずみ やくも、1850年6月27日 – 1904年(明治37年)9月26日)は、ギリシャ生まれの新聞記者(探訪記者)、紀行文作家、随筆家、小説家、日本研究家、英文学者。
1896年(明治29年)に日本国籍を取得して「小泉八雲」と名乗る。
「八雲」は、一時期島根県の松江市に在住していたことから、そこの旧国名(令制国)である出雲国にかかる枕詞の「八雲立つ」に因むとされる。
日本の怪談話を英語でまとめた『怪談』を出版した。
母がキシラ島生まれのギリシャ人で、アラブの血も混じっていたらしく、のちに八雲自身、家族や友人に向かって「自分には半分東洋人の血が流れているから、日本の文化、芸術、伝統、風俗習慣などに接してもこれを肌で感じ取ることができる」と自慢していた。
父母を通じて、地球上の東西と南北の血が自分の中に流れているという自覚が、八雲の生涯と文学を特徴づけている。異国情緒を求める時代背景もあったが、八雲は生涯を通じてアイルランドからフランス、アメリカ合衆国、西インド諸島、日本と放浪を続けた。
かつ、いかなる土地にあっても人間は根底において同一であることを疑わなかった。シンシナティでは州法を犯してまで混血黒人と結婚しようとし、のちに小泉セツと家庭を持つに際しても、何ら抵抗を感じなかった。
2016年11月、愛知学院大学の教授によって1896年(明治29年)当時の英国領事の書簡を元にした研究論文が発表され、小泉八雲がイギリスと日本の二重国籍だった可能性が高いことが示唆されている
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